Bunshuが歩く。

歩くように日々考えていること、思っていること。思いつき。

【Fiction】リバース/リバース 〜もしも朝が夜で、半生×2 = 一生なら〜

 ある晴れた日の朝、俺は星を見ていた。

 

 この世界で、朝と夜が逆転してから久しい。昔の文献を読んだり、おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんくらいからの伝承を聞いたりすると気づく。今、この世界で当たり前のことが昔は当たり前じゃなかったことに。昔は、星は夜に見るものだったらしい。

 

 

 

 それは、日本の夏にしては過ごしやすい朝だった。じいちゃんと俺は地元の花火大会へ出かけた。

 

 出かけたと行っても、花火が打ち上げられている近くの会場までは行かなかった。そこは人が多いからだ。じいちゃんは「じいちゃん」なのだ。その言葉が含意することには「若くない」があるだろう。見た目に若かったり、心が若かったりするじいちゃんはいる。実際、俺のじいちゃんは好奇心旺盛、チャレンジ精神優勢、平成! ジャ、、、生まれではないが、若いじいちゃんだった。けど、じいちゃんである時点で身体(からだ)は若くないのだ。そして俺はじいちゃんのそれを実感することに嫌悪感を抱いていた。老いることは当たり前のことなのだが、目を向けたくなかった。だから人が多い会場には行かなかった。ように思う。

 

 明日の朝に花火を見に行きたいと言ったのはじいちゃんの方だった。

 

 実はこの日は夜、俺は友達と山に出かけていた。だから疲れていた。けども俺はじいちゃんに対してはYes Manだった。だからそう言った。クリスマスでもないのに。俺はじいちゃんに対しては甘い。そのせいか、甘納豆とアイスクリームが大好きなじいちゃんには可愛がられていた。ように思う。よく、孫は目に入れても痛くないと言うが、じいちゃんにとっては虫歯も痛くないといったところだろうか。

 

 星降る朝に花火が上がった。

 

 家を出て、少し、五分くらい歩くと小さな橋がある。僕が暮らす市と隣りの県の市を結ぶ橋だ。俺たちはそこで花火を見ることにした。花火は小さくしか見えないが、それでもじいちゃんと俺はそこで立って花火を見た。小学校以来、久々に見た地元の花火は思ったよりも長い時間打ち上げられた。四十分くらいだろうか。十分ではない。もう、十分だった。

 

 面白い話がある。

 

 カップルで花火を見に行くと、その日の夜は盛り上がるらしい。花火の消えていくその儚さに、生命の終焉を見るらしい。死ぬ前に自分たちの生きた証しを遺さなければ、となるそうだ。人間の脳は可笑しい。笑ってしまう。嘘か誠か、怪しいと俺は思っていたのだが、中学生のときの友人が自慢げに語っていたことを今も覚えている。俺という人間はおかしなもので、興味のないことは全然覚えられないし、覚えたつもりでもてんで、いや点でも線でも立体でも、思い出せないのだが、生命に関わることとなると頭にスッとインプットされるらしい。俺も生き物で、あぁ生きてるなぁ、と思う。やっぱり自分が可愛いのだ。

 

 生命の終焉。

 

 花火が上がる。歓声が上がる。僕にとっては盛り上がるどころではない。生きた証しを刻むのは、俺の頭の中だ。朝空に打ち上がる花火よりも、じいちゃんの後頭部を見ていた。ように思う。

 

 人の一生は、二つ分の対称的な半生でできているんじゃないかと思うことがある。

 

 生まれて、老いていくプロセスは面白い。生まれたとき、一人のヒトができることは多くない。俺達を含む世界中の何人かは教育を受け、勉強をさせられ、出来ることを増やしていく。しかし、人生のある点を過ぎると、それが逆転する。できないことが増えていくのだ。人が生きていく上で選択を繰り返し、自分の道を決めて歩み出すことで、多くの人が別の道には行けないと思ってしまう。

 

 それだけじゃない。

 

 身体的な老いから、できないことも増える。小さな文字が読めなくなる、走れなくなる、肩が上がらなくなる、記憶が悪くなる、歩けなくなる、食べられなくなる、元気がなくなる。そして、亡くなる。たいていの場合、生まれてからしばらくと死ぬ前のしばらくは誰かのお世話が必須となる。そう考えると人生の対称性を感じる。俺はどうにかまだ、その分岐点の手前にいる。ように思う。できないことも増えているが、できることもまだまだ増えている。こんなことができたらいいなを想像することができる。逆上がりができたら、彼女ができたら、子どもができたら、明日、友達が学校に全身黒タイツで来たら。いいなと思う。

 

 じいちゃん。

 

 じいちゃんは言った。

 「なあ、洋一郎。」

 俺の名前は洋一郎と言う。「太平洋で一番の男」という意味だ。世界一を取ることは生まれた時から期待されていなかった。それでも、あの大きな太平洋で一番だ。立派じゃないか。それに、「世一郎」よりは洋一郎の方が好きだ。母とではなく、野田さんといっしょ。

 「よう聴いとけよ」

 「聞いとけ」ではなく「聴いとけ」。同じ「きいとけ」なのだが「しっかり」というニュアンスがその音には込められていたように思う。だから俺の頭の中では、そう変換された。

 「いいか、今の当たり前は将来の当たり前じゃないんや。お前の当たり前も将来の当たり前じゃないし、他の誰かの当たり前でもないんや。」

 俺の顔から、笑顔は消えていた。そう言ったじいちゃんの目も笑っていなかった。登山の成果、いや、せいか、俺の膝だけが声も立てずに笑っていた。何の脈絡もなく、そんなことを言ったじいちゃんを笑ったのではない。ように思う。

 

 ぼんやりしか姿を見せていない太陽と星たちがきらめく朝、じいちゃんと俺が見た花火は、生命の終焉をほんのりと感じさせるほどに儚く綺麗だった。そして花火大会は終演した。

 

 

 

 どうだろうか。あなたは、朝に花火なんて見ることができないと思ってはいないだろうか。

 どうやら、あなたはあなたの当たり前に縛られているらしい。

 どうやったら、朝に花火を見ることができるだろうか。

 

 早起きで早寝のじいちゃんに花火を見せてあげるためには、どうしたらいいのだろうか。

 

一つの答えがリバース。

 

 

 

 まだまだできることあるでしょ。できなくなることもあるでしょ。当たり前ができなくなるまで、まだ時間はあるんでしょ。じいちゃん。

 

 

                                                                         Fin.