Bunshuが歩く。

歩くように日々考えていること、思っていること。思いつき。

【Fiction】リバース/リバース 〜もしも朝が夜で、半生×2 = 一生なら〜

 ある晴れた日の朝、俺は星を見ていた。

 

 この世界で、朝と夜が逆転してから久しい。昔の文献を読んだり、おじいちゃんのおじいちゃんのおじいちゃんくらいからの伝承を聞いたりすると気づく。今、この世界で当たり前のことが昔は当たり前じゃなかったことに。昔は、星は夜に見るものだったらしい。

 

 

 

 それは、日本の夏にしては過ごしやすい朝だった。じいちゃんと俺は地元の花火大会へ出かけた。

 

 出かけたと行っても、花火が打ち上げられている近くの会場までは行かなかった。そこは人が多いからだ。じいちゃんは「じいちゃん」なのだ。その言葉が含意することには「若くない」があるだろう。見た目に若かったり、心が若かったりするじいちゃんはいる。実際、俺のじいちゃんは好奇心旺盛、チャレンジ精神優勢、平成! ジャ、、、生まれではないが、若いじいちゃんだった。けど、じいちゃんである時点で身体(からだ)は若くないのだ。そして俺はじいちゃんのそれを実感することに嫌悪感を抱いていた。老いることは当たり前のことなのだが、目を向けたくなかった。だから人が多い会場には行かなかった。ように思う。

 

 明日の朝に花火を見に行きたいと言ったのはじいちゃんの方だった。

 

 実はこの日は夜、俺は友達と山に出かけていた。だから疲れていた。けども俺はじいちゃんに対してはYes Manだった。だからそう言った。クリスマスでもないのに。俺はじいちゃんに対しては甘い。そのせいか、甘納豆とアイスクリームが大好きなじいちゃんには可愛がられていた。ように思う。よく、孫は目に入れても痛くないと言うが、じいちゃんにとっては虫歯も痛くないといったところだろうか。

 

 星降る朝に花火が上がった。

 

 家を出て、少し、五分くらい歩くと小さな橋がある。僕が暮らす市と隣りの県の市を結ぶ橋だ。俺たちはそこで花火を見ることにした。花火は小さくしか見えないが、それでもじいちゃんと俺はそこで立って花火を見た。小学校以来、久々に見た地元の花火は思ったよりも長い時間打ち上げられた。四十分くらいだろうか。十分ではない。もう、十分だった。

 

 面白い話がある。

 

 カップルで花火を見に行くと、その日の夜は盛り上がるらしい。花火の消えていくその儚さに、生命の終焉を見るらしい。死ぬ前に自分たちの生きた証しを遺さなければ、となるそうだ。人間の脳は可笑しい。笑ってしまう。嘘か誠か、怪しいと俺は思っていたのだが、中学生のときの友人が自慢げに語っていたことを今も覚えている。俺という人間はおかしなもので、興味のないことは全然覚えられないし、覚えたつもりでもてんで、いや点でも線でも立体でも、思い出せないのだが、生命に関わることとなると頭にスッとインプットされるらしい。俺も生き物で、あぁ生きてるなぁ、と思う。やっぱり自分が可愛いのだ。

 

 生命の終焉。

 

 花火が上がる。歓声が上がる。僕にとっては盛り上がるどころではない。生きた証しを刻むのは、俺の頭の中だ。朝空に打ち上がる花火よりも、じいちゃんの後頭部を見ていた。ように思う。

 

 人の一生は、二つ分の対称的な半生でできているんじゃないかと思うことがある。

 

 生まれて、老いていくプロセスは面白い。生まれたとき、一人のヒトができることは多くない。俺達を含む世界中の何人かは教育を受け、勉強をさせられ、出来ることを増やしていく。しかし、人生のある点を過ぎると、それが逆転する。できないことが増えていくのだ。人が生きていく上で選択を繰り返し、自分の道を決めて歩み出すことで、多くの人が別の道には行けないと思ってしまう。

 

 それだけじゃない。

 

 身体的な老いから、できないことも増える。小さな文字が読めなくなる、走れなくなる、肩が上がらなくなる、記憶が悪くなる、歩けなくなる、食べられなくなる、元気がなくなる。そして、亡くなる。たいていの場合、生まれてからしばらくと死ぬ前のしばらくは誰かのお世話が必須となる。そう考えると人生の対称性を感じる。俺はどうにかまだ、その分岐点の手前にいる。ように思う。できないことも増えているが、できることもまだまだ増えている。こんなことができたらいいなを想像することができる。逆上がりができたら、彼女ができたら、子どもができたら、明日、友達が学校に全身黒タイツで来たら。いいなと思う。

 

 じいちゃん。

 

 じいちゃんは言った。

 「なあ、洋一郎。」

 俺の名前は洋一郎と言う。「太平洋で一番の男」という意味だ。世界一を取ることは生まれた時から期待されていなかった。それでも、あの大きな太平洋で一番だ。立派じゃないか。それに、「世一郎」よりは洋一郎の方が好きだ。母とではなく、野田さんといっしょ。

 「よう聴いとけよ」

 「聞いとけ」ではなく「聴いとけ」。同じ「きいとけ」なのだが「しっかり」というニュアンスがその音には込められていたように思う。だから俺の頭の中では、そう変換された。

 「いいか、今の当たり前は将来の当たり前じゃないんや。お前の当たり前も将来の当たり前じゃないし、他の誰かの当たり前でもないんや。」

 俺の顔から、笑顔は消えていた。そう言ったじいちゃんの目も笑っていなかった。登山の成果、いや、せいか、俺の膝だけが声も立てずに笑っていた。何の脈絡もなく、そんなことを言ったじいちゃんを笑ったのではない。ように思う。

 

 ぼんやりしか姿を見せていない太陽と星たちがきらめく朝、じいちゃんと俺が見た花火は、生命の終焉をほんのりと感じさせるほどに儚く綺麗だった。そして花火大会は終演した。

 

 

 

 どうだろうか。あなたは、朝に花火なんて見ることができないと思ってはいないだろうか。

 どうやら、あなたはあなたの当たり前に縛られているらしい。

 どうやったら、朝に花火を見ることができるだろうか。

 

 早起きで早寝のじいちゃんに花火を見せてあげるためには、どうしたらいいのだろうか。

 

一つの答えがリバース。

 

 

 

 まだまだできることあるでしょ。できなくなることもあるでしょ。当たり前ができなくなるまで、まだ時間はあるんでしょ。じいちゃん。

 

 

                                                                         Fin.

【Fiction】ヒマワリ


ヒマワリ、向日葵。キク科の一年草。北アメリカ原産。夏、直径二十センチメートルもの大形の黄色い頭花を開く。太陽を追って花が回るという俗説もあるが、実際にはほとんど動かない。

 

 


僕はヒマワリが好きだ。ヒマワリは一途だ。大好きな太陽さんの方をずっと見ている。周りの目なんか気にしない。なんてヤツだ。人前で話すのが苦手、自分の気持ちを上手く伝えることのできない僕にとって、その姿がまぶしかった。いや、正確には上手く伝えることの「できなかった」かな。あれから十年以上、人見知りがひどかった僕も大学の授業でプレゼンテーションを(文字通り)こなし、合コンにも(脇役として)参加している。「とても上手く」とまではいかなくても、「まぁまぁ上手く」自分の気持ちを伝えることができるようにはなった。人間、やればできるものだ。どっかの大統領は正しかった。 ”Yes, we can.” そう、私たちにはできる。今までに姫君とお付き合いをさせて頂き奉ったことも、何度かある。心から御礼申し上げる。


他の誰かや、車や馬車に引かれるのは困るが、自分でも引くくらいヒマワリが好きだ。小学校の図工の時間、中高の美術の時間、授業中の落書き、何かにつけてヒマワリを描いていた。夏休みの自由研究では、ヒマワリをテーマに賞状をもらったこともある。お酒のあてにはヒマワリの種。しまいには観覧車をヒマワリ、クレヨンし〇ちゃんの妹も「ひ〇わり」と呼ぶ始末だ(「そりゃ、そうじゃ」とオー〇ド博士よろしく突っ込んでほしい)。この気持ちは、ゴッホおじさんにも負けやしない。ハ〇太郎もリ〇ちゃんも、コ〇シ君だって相手にならない。我が家の裏にある日当たりのよい空き地には、大きな大きなヒマワリがその花をビンッと開いている。両手をいっぱいに広げて、「私はここにいるよ」と太陽さんにアピールしているみたいだ。
「ねぇ、こっちを見て。私、ここで待ってる」
ニッコリと、今日もご機嫌である。


そのヒマワリが初めて咲いたのは小学校三年生のころ。自分で種をまいたことも忘れかけていたころだった。ヒマワリの種を僕にくれたのは、君だった。

 

 


学校が終われば、いつも君と遊んでいた。日が暮れるまで。ホントは日が暮れても君と一緒にいたかった。けど、親が許してくれそうになかったし、
「おとこのくせに」
と、君に笑われる気がしていた。僕は「男」として見られるのが嫌いだ。僕が男であることは一ミクロン(一ミリの千分の一)の間違いもない事実で、あるべき所にそれはあって、元気に与えられた役割を全うしているのだけれども。「男」というカテゴリにまとめられるのがどうも気に入らない。
「自分がされて嫌なことを、他人(ひと)にしてはいけません」
ママも、先生もそう言う。だから僕も他人をカテゴリ分けしない。僕は、少なくとも女としてではなく、君を君として見ていた。君として見ている。

 

 


君は僕のお隣さんだった。幼馴染みで、お隣どうし。幼稚園の頃から、太陽が出ている時間はずっと一緒だった。いつも笑顔がまぶしい君が、ある日マジメな顔して言った。
「ねぇ、あたしね。あした、おとなりまちに、おひっこしするの」
いつもの帰り道。二人で毎日、登場したばかりの色白で少し恥ずかしそうな月を見て歩いた。君は天文学が好きで(もっとも、当時の僕たちは「天文学」という言葉を知らない)、「宙(そら)ガール」の先駆け的存在だったのだなあと今にして思う。あの頃からすでに君はセンスの良い女性だった。その夜、僕らの上にはいつものように空があり、月の形についてあーだこーだ言い合っていた。だけどその日の月がどんなだったか、僕はよく覚えていない。自分から忘れたかったのかもしれない。まるであの日はなかったかのように。そしてずっと君と一緒にいられますように、と。


とはいっても、お引越しするとどうなるのか。お隣どうしには変わりないよな。よく理解できていなかった僕は翌朝、いつも通り学校へ向かって家を出た。学校が終わり、いつも通り一緒に遊ぶために下駄箱で君を待つ。いつもは一緒にランドセルをしょって教室を出た。けど「いつも」は実はいつも「いつも」ではなくて、いつまでも「いつも」ではなくて(永遠はいつまでも永遠ではなくて、ママが誰にとってもママでないのと同じ)。君と僕は今年からクラスが違う。残念がる僕に向かって君が言った言葉を今も覚えている。
「ねぇ、しってる? あえないじかんが愛をそだてるのよ」
だから少しくらい離れていても僕は気にしない。今、こうしている間もすくすく育っているのだから。(てか、愛ってなんだ?)


待ち合わせの時間になっても下駄箱に現れなかったら、近くの公園に先に行く。それが僕と君だけの秘密の約束。待ちきれなくなった僕は一人、いつもの公園へ向かった。そしてまた君を待つ。愛が育つ(いや、愛ってなんだ?)。なかなか、なかなか、なかなか君は来ない。空はだんだんとオレンジ色に染まっていき、やがて深い藍色になった。今日は月がきれいだ。君と月の話がしたい。次の話はこれにしよう。話のトピックまで決めて待ったが、君は来ない。愛は育っているのか(そうか、これが愛なんだ)。ここで初めて、お引越しの意味を少しだけ理解した。ような気がした。気が付けば僕の両足は前へ前へと、僕の体を進めていた。


君の家、つまり僕の家の隣までの最後の角を曲がったとき、車に吸い込まれていく君の横顔を見た。こんな時だというのに、息が切れて声が出ない。あと少し。車ってやつはいじわるだ。追いかける僕をちらりとも見ずに走り出した。いくら僕でも車に追い付けないことくらいわかっている。それでも足が止まろうとしない。僕の足はバカだ。持ち主に似たのかもしれない。バカはバカなりに良いことがある。今ここは火事場ではないが、バカには「バカ力」というやつがあるようだ。やはりバカ足の持ち主はバカだった。この際、バカでもアホでもなんでもいい、同じ阿呆なら踊らにゃ損々。出ないはずだった声を振り絞った。夜風を取り込むために開け放たれていた窓に、僕は心の底から、これでもかってくらい感謝している。ありがとう。夏でよかった。君は夏がよく似合う。気が付いた君がこっちを振り向いた。慌てて僕は手を振った。サヨナラのつもりではなかった。それでも手を振った。君も手を振り返し、小さな粒をいくつか投げた。少し大きめの涙の粒にも見えた。車が見えなくなったあと、僕はその涙の粒を三つ拾い上げた。ヒマワリの種だった。
「ねぇ、きいて。あたしね、おはなのなかで、ヒマワリがいちばん好き」


なんで君はあの時、ヒマワリの種を持っていたのか。僕を待っていたのか。渡そうと思っていたのか。最初のうちは大事に育てた。三つのうち、二つが芽を出した。そこまでは、大事に育てた。自由に研究していたから。そして薄情な僕が、新しく楽しい記憶で脳みそをいっぱいにしていたころ、一つだけが花を咲かした。そのヒマワリは今でも太陽さんの方を一途に見ている。僕にとって国語辞典は固めの枕だ。吾輩の辞書は、吾輩自身だ。ヒマワリは曇りの日も、太陽さんを待っているんだ。僕は君を待っているんだ。

 

 


明日は成人式。朝早く起きなければならない女の子たちはさっさと眠ってしまっていることだろう。君も眠りについているだろうか。きっとヒマワリよりも綺麗になっているだろうな。


ヒマワリ、向日葵。キク科の一年草。北アメリカ原産。夏、直径二十センチメートルもの大形の黄色い頭花を開く。

好きなものを一途に見ている花、待っている花。

 

 


Fin.

【Fiction】101人の俺。

 「あー、もう一人の俺がいたらなー。」

 人は叶いもしない夢を口にすることがある。それが叶わないことは誰しもが知っている。本人も重々の承知だ。しかし、言わずにはいられない。それが人で、ヒトという生き物だ。叶わない願いと知っていても、それを口にすることで、叶わないことを確認する。それで自分を納得させる。
 「あぁ、やっぱり叶わないんだ」


 「叶」という字は「口」と「十」という二部構成だ。人はこう言う。
 「「口」に「十」回出して言うと書いて「叶う」。口に出せば夢は叶う。」
 と。本当だろうか。十回口に出して言えば夢が叶うとは思わないが、口に出すことは大事だと俺は思う。


 「夢」というと少し大げさな気がするので、「やりたいこと」と置き換えて考えてみよう。「やりたいこと」は何でもいい。ゆっくり寝たいとか、美味しいものを食べたいとか、ダイヤの指輪を手に入れたいとか、イタリアに行きたいとか。本当に何でもいい。そしてそのことを口に出してみよう。口にすることのメリットは二つあると俺は思っている。
 一つ目は、自分に責任が生まれるということだ。口に出したからには、その「やりたいこと」に向けて歩みを進めないといけないと思うだろう。そうだろ? そうでないと、ただの口だけ人間というレッテルを貼られてしまう。貼られてしまうというか事実だが。歩みを進めると「やりたいこと」の実現に近づく。それは理屈として当然だ。
 二つ目は、誰かが助けてくれるかもしれないということだ。あなたの「やりたいこと」は、あなたが口にしない限り周囲の誰もわかりやしない。わかってくれやしない。それは当然だ。他人の気持ちを完全にわかる人はいない。あなたの「やりたいこと」を知った周囲の人は、自分にできることがあるかもしれないと支援を申し出てくれる可能性が生じる。あくまで可能性だが口にしないと、この可能性はゼロのままだ。そして「支援」があれば、「やりたいこと」の実現に近づく。これも理屈として当然だ。

 例えば、「ゆっくり寝たい」を例にとってみよう。比較的実現しやすい「夢」だ。まずは「ゆっくり寝たい」と口に出す。ゆっくり寝るための努力をしようとなる。早くお風呂に入るとか、目覚ましかけないとか。そして周りが支援してくれる。お風呂先に入っていいよとか。さぁ、あとは早く寝て、ゆっくり眠るだけだ。


 とは言っても「もう一人の俺」がいるはずなんかもなく、降ってくるはずなんかもなく。前述したように叶いもしない。

 しかし、僕の夢は叶ったのだった。


 とある大学の二年生。一人暮らし。山岳部。近所のイタリアンでキッチンのアルバイト。
 研究室では地球環境保全の勉強をするつもりだ。俺は自然が大好きだ。地球からの恩恵に対する感謝を体現し、それを後世にも残していくために、環境保全学者になりたい。大学院への進学を決めている俺はそろそろ勉強に力を入れなくてはいけないと思っている。そこそこ慣れてきた一人暮らし。だが、自分のことをすべて自分でやるというのは楽ではない。親は偉大だ。部活では上級生の引退を控え、部の中心を担うポジションになってくる。俺は(その人望から)部長に任命される可能性が高いと巷で噂になっている。アルバイトは大学に入学したときから始めて、中堅の働き盛り。学業、家事、部活、アルバイト。
 「学生には時間がある」とはどこのどいつが言ったのか。それは学生の定義には含まれていない。と俺は思う。すべてやるべきことで、やりたいことだからそれでいい。それでいいのだが、時に一人ではギリギリな時もある。

 だが、今日から俺は二人だ。そいつは僕の部屋にある姿見から出てきた。それはアルバイト先の先輩山下さんがくれたものだ。山下さんは男だが長く伸ばした髪を頭の後ろで束ねている。伸ばしているのは髪だけでなく、ひげもボサボサだ。しかし鼻の下は例外だ。いつも仏頂面で、仕事に必要なこと以外はほとんど口を開かず、もくもくと働く。どこで習ったか知らないが、山下さんの作るピザは世界一だ。と俺は思う。俺と山下さんが働くイタリアンは隠れ家風の一軒家の一階にあり、オシャンティーだ。そして地元の人達の知る人ぞ知る名店で、どこのどいつだか、おキレイな女性が一人で山下さんのマルゲリータを食べに来ることも少なくない。
 そんな山下さんがある日、店を辞めた。俺にその姿見をくれた翌日だった。山下さんは辞めるとは言わなかった。少なくとも俺には。まさに読んで字のごとくフラッと出て行った。そして帰って来なくなった。今思えば、山下さんは猫だったのかもしれない。

 俺はバイト中、忙しくなければ店長とよく話をする。山下さんはそこにいても話には入ってこようとしない。
 「俺、最近鏡ほしいんですよねー。体全体が映るおっきいやつ。男は持ってるやつ少ないかもしれませんけど、今のご時世、男も身だしなみが大事ですよ。」
なんて。何の根拠もない持論、そして姿見を手に入れるという「やりたいこと」を恥ずかしげもなく口に出していた。
 それから一週間ほど経ったころ、山下さんがめずらしく話しかけてきた。
 「姿見、やるよ。俺の。」
ただ、それだけ。

 翌日、山下さんは店先までその姿見を持ってきていた。それは思っていたより軽く、大人の男ひとりなら簡単に持ち出すことができた。その日はバイトが休みだった俺はありがたくそれをいただき、山下さんに感謝を伝え、隠れ家風イタリアンを後にした。


 姿見をもらって来たその日、俺はそれに全身を映し眺めた。昔からそうだ。手に入れたものはすぐに使いたくなる。服を買って来ればすぐさまファッションショーが始めり、翌日はそれらでコーディネートする。それが俺の性分だ。姿見は俺の理想に限りなく近く、大変気に入った。一通り楽しんだ後、俺は眠りについた。


 翌朝、初めて出会ったもう一人の俺は当然、俺にそっくりだった。そしてなぜか俺の言うことをよく聞く。その日以来、俺は大学の授業への出席とアルバイトをそいつに任すことにした。つまり俺は簡単な家事をこなしつつ山岳部の活動、すなわち登山に専念することを決めた。こうして、俺と俺の奇妙な二人暮らしが始まった。


 思ってもみなかった。


 お金が貯まらないのだ。二人の人間が暮らすには当然、二人分の食費がかかる。洗い物も洗濯も二倍。しかし働いているのはもう一人の俺だけで、アルバイト一人の収入なんぞたかが知れている。大人の男二人を養うので精いっぱいだ。さらに山に行くには金がかかる。交通費、食費、装備費、山小屋に泊まるなら宿泊費もいる。そのための資金は一向に貯まる気配がない。
 そして何よりもゴミが二倍出るのだ。二人の人間が暮らせば、ゴミが二倍になるのも当然だ。そこまで考えが及ばなかった自らの浅はかさを俺は嘆く。俺は地球環境保全を勉強しておきながら、自らの欲望のままに「もう一人の俺が欲しい」と願い、それを叶えてしまった。自分の都合しか考えていなかった。
 人間が生きていくには、それ相応のエネルギーが必要で、それを俺たちは自然環境から頂いたり、自然環境を犠牲にして得ている。俺が二人いることは、二人分、地球に負担を掛けているということでもあったのだ。

 「もう一人の俺がいたら」
 時間に追われ、あくせく働く現代社会において、多くの人が一度は思ったことのあることかもしれない。少なくとも俺はそうだった。けど、今の俺は違う。


 今日は第三火曜日。粗大ごみの日だ。俺は山下さんからもらった姿見をたたき割り、不用品の紙を貼り、ゴミ収集所まで運んだ。

 学業、家事、部活、アルバイト。今日からまた忙しい日々が始まる。俺は、それらを一人でこなす。でも、それは俺が自ら選んだ生活。しんどくなればどれかを辞めたり、比重を変えたりしたらいい。考えて、上手くやればいい。もう俺はもう一人の俺を望まない。

 自分の力で、できる範囲で生きていく。考えて、工夫しながら生きていく。そう決めたんだ。
 さよなら、もう一人の俺。ありがとう。

 

【Fiction】ばかばっか

 

後ろから人が来ることが明らかなのに、なぜ改札を出てすぐに立ち止まるのか。

 

電車を待つときは、二列の方が列が長くならなくて良いではないか。

 

電車から人が降りるときに、降車口を塞ぐのはやめないか。

 

 

 

良夫(よしお)はイライラしていた。場数を踏んでもカバーしようのないバカばっかだと。そもそも彼らは場数を踏んでホップステップで階段を上がっているのか。踏んで、踏みつぶして、それで終わってはいないか。あるいは踏んで、踏み外しているんじゃないか。

 

 

 

ヒトには後ろ向きに目がついていないことは知っている。そんなことは、生物学で習うまでもない。しかしヒトには考える頭と、想像する力がある。それで十分だ。と良夫は思っている。今、この場所で自分が止まれば後ろが困ることを想像するくらいはお茶の子さいさい、ひと欠片のケーキだ。

 

一列に並んでいるものが二列になれば、その長さは単純に半分になる。そんなことは数学で習うまでもない。というか教えてくれやしない。もはや考えるまでもない。無意識だ。

 

我先にと電車に乗り込み座りたいのだろう。疲れている時は、その気持ちもわからんでもない。しかし、冷静になるんだ。降りる人が降りきらないと、乗りたくても乗れないだろ。踏むものは場数だけではない。手順を踏め。世界はあなた一人じゃない。

 

 

 

しかし、かくゆう良夫もバカである。私に言わせれば。彼はバカに対してイライラしているバカであり、バカの行動原理を理解できないバカであり、バカの「バカごと」を解決することのできないバカである。

 

 

 

世の中は「バカごと」と、バカが作り出した「バカもの」で溢れている。

 

人類はみな兄弟であり、バカである。ゆえに、吾輩もバカである。

 

そんな我々バカが人生に悩んで、あーだこーだ考えて、あれやこれやしたところで埒(らち)なんて開きやしない。だったらそんなバカバカしく悩んでないで、バカなりにやりたいことやんべ。

 

さぁ、バカやっか。

 

 

fin.

 

【Fiction】詩をよむウサギ

 

 「さっちゃん」は優しい。今日も私のことを思ってくれている。

 

 

 

 とある町のとある一軒家の玄関、私は小さな籠の中で暮らしていた。私の家は小さくて、ご飯の入れ物、トイレがあって、私が動けるスペースは限られていた。けど、私は幸せ。だって優しい「さっちゃん」がいるから。

 

 私はウサギ。野生のウサギは野原を駆け回ると聞いたことがあった。私は生まれてこの方、たいてい籠の中で暮らしていた。けど、私は幸せ。だって優しい「さっちゃん」がいるから。

 

小さいときはペットショップで暮らしていた。私以外にもいろんなウサギとか、鳥さんとか、犬さんや猫さんもいた。そこにはたくさんお友達がいた。このおうちで、ウサギは私だけ。みんなもいない。けど、私は幸せ。だって優しい「さっちゃん」がいるから。

 

基本的には籠の中で日々を過ごすけど、一日に一度だけ外に出ることができた。お散歩の時間だ。私はこの時が大大大好きだった。はしゃぐあまり頭をぶつけることもあった。狭いところが好きだから、棚の下に潜り込むこともあった。ホコリまみれになった。こんな時は、優しい「さっちゃん」に怒られた。怒りながらホコリを取ってくれた。そんな優しい「さっちゃん」は私の誇り。

 

 

 

さっきも言ったけど、もっと小さかったころ私はペットショップと呼ばれるところでおじさんとお友達と暮らしていた。今と同じようにご飯もあるし、お水もある。仲間もいるし、楽しかった。

 

そんな私に、毎日毎日会いに来てくれる人がいた。「さっちゃん」だった。

 

「さっちゃん」はいつも一人だった。いつもお空が暗くなる前くらいにやってくる。私の暮らしている籠の前に立ち止まり、私を見た。私も「さっちゃん」を見た。「さっちゃん」の目はいつもキラキラしていた。こんな目をしている人を、私はペットショップで見たことがなかった。おじさん以外に。

 

 

 

そんなある日、「さっちゃん」が大人の人を連れてきた。「さっちゃん」によく似た人だと思った。あとからわかったんだけど、「さっちゃん」のお母さんだった。

 

私はお母さんを知らない。気づいた時には一人だった。友達はいっぱいいたけど、お母さんはいなかった。だから私は一人だった。

 

「さっちゃん」のお母さんとペットショップのおじさんが話をしていた。「さっちゃん」の目はいつもよりいっそうキラキラしていた。「さっちゃん」は私を見ている。

 

しばらくして、私は別の籠に移された。そして「さっちゃん」が嬉しそうにその籠をつかんだ。ペットショップのおじさんが私に話しかけた。「いってらっしゃい。元気でね」。

 

なんでかわからない。なんでかわからないけど、私はちょっぴり悲しかった。おじさんも悲しそうだった。けど、「さっちゃん」は嬉しそうだった。

 

 

 

その日から、新しい籠の中での生活が始まった。今まで通り、毎日「さっちゃん」が会いに来てくれた。けど、今までと違うの同じおうちにいること。だから一緒にいる時間も今までより、うんと長い。

 

朝早く「さっちゃん」はどこかへ出かける。学校というところに行くらしい。

 

私はウサギ。ウサギは夜行性。夜の方が好きだ。朝はどちらかというと、まだ元気なほう。だって朝と夜はとなり合わせだから。お昼は眠い。だって昼は夜と背中合わせだから。夕方になると元気が出てくる。だって夕方は夜ととなり合わせだからね。

 

私は夜行性でよかったと思っている。だって「さっちゃん」と一番長く遊べる時間が一番元気だから。一番大切な時間だから。もし私が、お昼は元気で、夜は眠たくなるウサギだったら、「さっちゃん」との時間をめいいっぱい楽しむことができなかったかもしれない。だから私は誰かさんに感謝している。ウサギを夜行性にしてくれてありがとうって。

 

 

 

夕方くらいになると「さっちゃん」がおうちに帰ってくる。いつも私の籠に顔を近づけて「ただいま」をしてくれた。私も心の中で、大きな声で「おかえり」と叫んだ。

 

「ウサギは鳴かなくていいね」という人がいる。確かに、ウサギは鳴かない。鳥さんや犬さん、猫さんみたいには。けど、ウサギだってたまには鳴きたい時がある。そんなときは鳴かしてほしい。基本的には、腹の底から怒った時くらいだけど。

 

私が「おかえり」と言いながら、「さっちゃん」の方に近寄ると、「さっちゃん」は頭をなでてくれた。これが私にとって最高のひと時だった。そしてその時の「さっちゃん」も本当に幸せそうな顔をしていた。

 

「さっちゃん」も私も、生物学的には「雌」と言うらしい。ペットショップにいるとき、物知りのネズミさんが教えてくれた。雌の私にとって、「さっちゃん」は同性と言うらしい。生物学的には同性間の両想いは不思議なんだって。「だって二人の遺伝子を残すことができないじゃないか」とそのネズミさんはむつかしいことを言う。

 

遺伝子が何なのか私は知らない。そんな私は言った「世の中は不思議なことだらけ。一つくらい不思議なことが増えても誰も怒らないんじゃないかしら」。「いいね!」ネズミさんは答えた。これがネズミさんの良いところだ。自分の考えを持っている。けど、その考えを押し付けたりはしない。誰かの意見を否定しない。反対意見をいう時もかならず「いいね!」で始める。けど、「さっちゃん」と私は紛れもなく両想いだ。触れ合っている時の二人の顔が何よりの証拠だ。あの幸せは嘘ではなかった。いや、嘘ではない。

 

 

 

私は恋を知らない。話に聞いたことはあるけれど、どんなものかよくわからない。すごく楽しいもので、時にすごく辛いものらしい。むつかしい。それが原因で争いごとが起こることもあるらしい。いろんな人や、その他の動物が求めるそれは、きっととびっきりおいしいに違いない。私もいつか味わってみたい。

 

私は愛を知っている。「さっちゃん」と私の間にあるもの。目には見えないけれど。「さっちゃん」は私にそれを注いでくれるし、私も「さっちゃん」にそれを注ぐ。もう、これでもかってくらい。目には見えないけれど。

 

 

 

そんな私が一度だけ、病気になったことがあった。なんだか体がポカポカして、景色がぼやけて見えていた。しんどかった。けど、「さっちゃん」を心配させてはいけないと思った。大好きだから。「さっちゃん」に気付かれてはいけないと、隠していた。

 

「さっちゃん」が学校に行っている間に、私はしんどくなってついに倒れてしまった。横向けにバタリと。おうちにはたまたま、お母さんがいた。倒れている私に気付いたお母さんが慌てて電話を取った。そこまでは覚えている。

 

見たこともない部屋にいた。真っ白な服を着た人が私の横に立っていた。一瞬、チクリと痛い思いをした。けど、その後すぐに気持ちよくなって眠ってしまった。

 

目が覚めたら、おじさんのところにいた。ペットショップのおじさんのところだ。仲良くしていたお友達はほとんどがいなくなっていた。その日、私は「さっちゃん」に会うことができなかった。

 

 

 

次の日、「さっちゃん」とお母さんが迎えに来てくれた。「さっちゃん」の目はいつもの目じゃなかった。キラキラはしていた。けど、いつものキラキラとはちょっと違った。なんだか鼻のあたりがツンとした。

 

その日、「さっちゃん」は遊んでくれなかった。けど、それは「さっちゃん」の優しさだと私はわかっていた。「さっちゃん」は優しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さっちゃん」は優しい。それは紛れもない事実だ。誰が何と言おうとそれは事実だ。私が保証する。

 

優しい「さっちゃん」が遊んでくれなかったのは「あの日」だけだった。それから毎日、私は優しい「さっちゃん」と遊んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

優しい「さっちゃん」も大人になった。とてもお母さんに似てきた。

 

今、優しい「さっちゃん」は、私たちのおうちにはいない。一人暮らしというやつをしているらしい。

 

それでも、「さっちゃん」は優しい。私のことをときどき思い出してくれている。そして目をキラキラさせている。どちらかというと、「あの日」私を迎えに来てくれた時のように。

 

 

 

私はウサギ

籠の中で暮らしてる

けど、私は幸せ

 

私はウサギ

お友達と離れ離れ

けど、私は幸せ

 

私はウサギ

サヨナラおじさん

けど、私は幸せ

 

私はウサギ

よろしく「さっちゃん」

そう、私は幸せ

 

私はウサギ

お昼は眠たい

けど、私は幸せ

 

私はウサギ

頭をなでてもらえる

だから、私は幸せ

 

私はウサギ

恋は知らない

けど、私は幸せ

 

私はウサギ

愛なら知ってる

だから、私は幸せ

 

私はウサギ

おかえり「さっちゃん」

あなたは幸せ?

 

私は幸せだったよ

優しい「さっちゃん」

 

 

 

fin.

 

【Fiction】君の波になる 

「私の波になりなさい」

 

君の声が青空のもとにファンファーレの如く鋭く響く。ファンファーレ。当時、君と僕は5歳。サーフィンごっこの真っ最中だ。

 

 

君と僕は幼馴染み。だけど、君と僕は馴染まない。君は水で、僕は油。みたいなもの。混ざり合うには乳化しなければならない。洗剤のような、界面活性剤があるといい。それが海だったのかもしれない。

 

 

君は海から生まれたようなものだ。海の近いこの町で僕らは生まれ、育った。互いの父親がサーフィン好きで、二人は海で出会った。当然、僕たちは海で育てられ、海が好きだった。親の意向に多くの子どもたちの趣向が左右される。君の名は波美(なみ)で、僕の名は海実(うみ)。親の思考の単純さには困ったものだ。

 

 

君が歩けば夏が来る。君は夏を連れて歩くような人だ。そして僕はよく君に連れられ、歩いた。小さいときは毎日遊んだ。家族のように育った僕らもどうやら思春期、二次性徴という壁には勝てないようで。中学に入ると次第に距離を置くようになっていった。

 

 

奔放な君はなぜかよくモテた。男たちはよく君に釣られていた。君に憧れ、恋い焦がれ、涙を流して飲んだ男は数知れず。僕はその話を聞くたびに、寄せては返す波を思い浮かべていた。彼の元に迫ってきた波は、次の瞬間にはすっと引いていく。君は名前負けしていない。

 

 

一方、真面目な僕はなぜかまったくモテなかった。連絡はマメにするし、誕生日や記念日を忘れることなんてあり得ない、約束は守る。というか守るもの、それが約束だ。ヒトは大人になる過程で、約束を守ることを忘れる。洗濯、掃除、料理とそれに付随する洗い物、家事はなんでもできる。因みに君の部屋は脱ぎ散らかした洗濯物であふれかえっていて、中一の時に君がくれたバレンタイン・チョコには歯が折れるかと思った(君自身もそれをわかっていたのか、以来、手作りのものを食べさせてはくれない。ありがとう)。

 

 

なぜか僕が有してしまった、その母性と包容力はまさに海だ、と君は笑って言ってくれた。どうやら僕は名前負けしていないらしい。が、しかし僕は母親ではなく父親になりたい。なれるものなら。世の中の理不尽さには本当に呆れたものだ。真面目が損をする世界を変えてくれる大統領はいないのだろうか。

 

 

あまりの差を僕は嘆く。あげく、適当な女の子と付き合うという、相手からしてみたら最低なことをしていた。それでも君に見てほしかったのだ。

 

 

面白い話がある。モテるメダカとモテないメダカを比較した研究だ。二つの透明な板で三つの小部屋に仕切った水槽を用意する。両端の部屋には雄のメダカ、真ん中の部屋には雌のメダカを入れる。端の部屋の一方にだけ、雌のメダカを入れる。これで端の部屋から順に、雄、雌、雄と雌のメダカが入った状態になる。当然、雄と雌のメダカが入った水槽では、生命の営みが催される。それが生き物ってもんさ。真ん中の部屋の雌はそれを見ている。雄と雌を入れていた部屋から雌だけを取り除き、水槽を三つに分けていた板も取り除く。するとどうだろう。真ん中の雌はさっきまで、生命の営みに明け暮れていた雄とペアを作るらしい。つまり、モテる雄はさらにモテるということだ。

 

 

モテる君はさらにモテ(君は雄ではないが)、モテない僕はさらにモテない。ヒトもメダカも同じ生き物なのだと、本を眺めながら妙に納得してしまう自分がいた。そして実践してみようとしてしまう阿呆は僕である。同じ阿呆なら踊らにゃ損々。

 

 

そんな君が唯一、惚れて惚れてどうしようもないものがあった。サーフィンだ。さっきも言ったが、君と僕は海で育った。君は波に乗ることに生きる価値を見出し、僕は海洋生物の研究に自分の可能性を探り始めた。僕らは今、高校3年。僕は東京にある有名大学の有名教授のもとで海洋生物研究に勤しむと決めている。〇〇することに決める、と意外と目標というものはぐっと近づく。と僕は思っている。多くの人はやると決めない、あるいはやると決めたのにやらないだけで、あることをやると決めて一歩踏み出すと、次の一歩が見えてくる。一歩を踏み出さない人には、次の一歩はない。そのことを知っている人はなぜか少ない。学校でも教えてくれない。

 

 

寒い冬が開ける前から受験に向けて勉強中である。君の進路は?と聞くと、君は「波のある方」と答えた。どうやらプロのサーファーを目指すらしい。彼女は、この夏に近くの海で開催されるサーフィン大会への出場を決めている。なにやらそこで上位に組み込むことが、サーフィンを生業にしていくことへの条件だとか。そんなわけで、徐々に汗ばむようになり、セミの姦しい愛の叫び(鳴くセミは雄だが)がじりじりと迫っている今日この頃、僕は猛勉強、君は猛サーフィンなわけで。君にとっての本番は、もうそろそろなわけだ。

 

 

僕は塾に行かない派閥に入っている。メンバーは今のところ、僕一人だ。ひょっとしたらもっといるかもしれないが、受験とは自分との戦いで、自分との戦いには自分一人で臨む。馴れ合いはいらない。慣れない環境よりはいいだろうと、僕は自分の部屋で勉強するのが好きだった。

 

 

今日もセミの愛のささやき、というより読んで字のごとく雄叫びはやかましい、と鰹節の如く集中力を削られながら机に向かっていた。ちなみに僕の部屋は2階にある。部屋の窓からは海を見渡すことができ、今日もサーフィンをしたり、ビーチで遊んだり、BBQをしたり、日光浴をしたり、あんなことやこんなことをしたりしている人がたくさんいる。どこかに君もいるのだろうか、と鉛筆削りの如く集中力を…以下同文。

 

 

そんな僕の集中力が完全に途切れた。バタバタとうるさい足音を立てて誰かが2階に上がってきたからだ。僕の部屋に近づいてきたその足音が止んだと思ったら、次はドンドンとうるさいノック音を立てて誰かが僕の部屋の扉を叩いた。

 

「波美ちゃんがケガしたって!」

 

たぶん、母は他にもいろいろ言っていた。だが、僕の鼓膜が揺れることはなかった。いや、揺れたが、脳はそれ以上に揺れていた。僕にとってはそれだけの情報で十分で。それ以上は入って来なかった。かろうじて入ってきた病院の名前という情報を頼りに、僕は駆け出した。

 

 

真っ白だ。病院はたいてい、真っ白だ。誰も彼もそこに好きなように絵を描くことができる。病院のベットにはその数だけのエピソードがあって、お見舞いに来る人、診察を受けに来る人も含めると無数のストーリーがある。誰も彼もが自分の描きたい絵を描けるように病院は真っ白なキャンバスだ。

 

 

今の自分の気持ち、今の自分が残したいもの、なんでも描いていい。小さな白いキャンバスでできた箱の中に君はいた。白いベットの上で、白い布団を首までかけられて、白い枕にその可愛げな頭を乗せて、眠っていた。君は今、どんな夢物語を描いているだろうか、その白いキャンバスに。

 

 

母が慌てていたから、ケガをしたばかりだと思っていたが、僕が鰹か鉛筆かになっているころにはとっくに病院にいたらしい。いろいろな検査で疲れたのか君は世界で一番重力を感じているかのように、ピタッとベットに吸いつき、離れない。サーフィンの練習中に接触事故を起こし、頭を打ったらしい。そして腕の骨も折れているのだとか。

君はまるで眠れる海のリトルマーメイドだ。美しいだけじゃない、まったく起きそうにない。君の肺が膨らみ空気を吸い込み、君の肺がへこみ空気を吐き出す。まるで寄せては返す波のような姿に僕は目を奪われる。僕らも大人になったなぁ。

 

 

病院の中は、愛の叫びも遮断されている。静かだ。いつしか僕は、夢と現実のはざまをウトウトしながらウロウロしていた。

 

 「出てって」

 

君の声だ。良かった。元気そうで。出てって。あぁ、出て行ってという意味か。つまり僕がこの病室から廊下へ行くことを君は望んでいるんだ。わかった。わかった。え?

 

 「え?」

 「いいから、出てって」

 

眠りから覚めた美女は、その美しき顔を見せてくれることはなかった。外を見ている。君の髪は短い。横顔は見える。たぶん、光っていた。

 

 

君が怪我をしてから僕は会ってもらえなくなってしまった。それからひと月以上たった。もう病院にはいないだろう。キャンバスに描くべきものはすべて描いてしまったに違いない。

 

 

君が怪我をした後サーフィンの大会は終わってしまった。当然、君は出ていないはずだ。僕は何の力にもなれなかったというわけだ。

 

 

君に会いに行こうとしても良かった。けど、君はそーいうお節介を嫌うことを僕は重々知っていた。君のことは誰よりも僕が知っている。君の苦しみだって、一番わかっているのはきっと僕だ。だから僕は何もしない。

 

 

世の中には二つのやさしさがあると僕は思っている。一つは「プラスのやさしさ」。もう一つは「マイナスのやさしさ」。わかりやすいのは「プラスのやさしさ」。誰かに何かをしてあげるとか、物をあげるとか、与えることによって相手に優しさが伝わるからだ。ただ、難しくとも大事なのが「マイナスのやさしさ」。何かをしないとか、何かを除いてあげるとか、与えないあるいは奪うことによって相手に優しさが伝わるのだ。

 

 

例えば、荷物を抱えたおばあちゃんがいるとしよう。おばちゃんを助けようと思って、荷物を持ってあげるのが「プラスのやさしさ」だ。これはわかりやすい。傍目にもその人が優しいことはわかる。一方で、「マイナスのやさしさ」の場合はどうだろう。荷物を抱えたおばあちゃんがいることを認知はしている。しかし、荷物を持ってあげないという判断をする。それは、自分でもてる程度の荷物を持ってあげることは、おばあちゃんのためにならないと考えた結果だ。荷物を持ってあげることでおばあちゃんの腕力は弱って、どんどん持てる荷物の量が減っていくかもしれない。そうするとおばあちゃんが人に頼らないといけない機会が増えてしまう。結果として、不便な生活を強いられるかもしれない。

 

 

かもしれない。誰にもわからないのだ。結局、「プラスのやさしさ」も「マイナスのやさしさ」もエゴでしかない。本当の意味で、他者の気持ちなんてわかりようがないから、それは仕方ない。大事なのは自分はよくよく考えたか、ということ。最初からプラスの面しか見ていなかったか、ということ。

 

 

僕は君のことをよく考えている。考えた結果。今回はマイナス面をとった。それが君のためだと考えた結果だった。それが良かったのか、悪かったのか、誰にもわからない。

 

 

そんな悶々とした気持ちが渦巻いていた。こうして僕らの高校生最後の夏は終わった。

 

 

セミの次はスズムシやらコオロギやら、秋は秋で姦しい。この町は年中、愛で溢れている。でも秋の姦しさはなんだか風流だ。思わず聞き入ってしまい、やはり勉強は進まない。

 

 

そんな秋の夜長を待ちわびていたある日の夕方、秋の虫たちの愛のささやきとは明らかに異なる電子音が、僕の部屋にけたたましく響いた。画面をちらりとみると待ち望んだマーメイドの名前がそこにはあった。小さな小さな点々が寄せ集まって、たがいにくっつき、必死になって、その人からの着信を僕に伝えてくれた。ありがとう点々。

 

「もしもし、私」

 

僕が電話を出ると、その人は名前を告げずに自分の要件を伝えて切ってしまった。

 

「寄せては返す、、、ね」

 

思わず独り言を垂れる17歳の夜。

 

 

僕たちの家は隣同士だ。なのに君は浜辺で会うことを指定してきた。どうせ道すがらどっかで出会うのが落ちだろう、という僕の予想とは裏腹に、君はおろか誰一人として外を歩いている人はいなかった。虫たちだけが語り合っていた。

 

 

一定のリズムを刻み、僕の右足と左足が次は俺の番だと前に出る。そしてリズム感があるのかないのか、僕の心臓はそれよりもさらに速いテンポでリズミカルに鳴り、それはどんどん加速していく。早く君に会わせろと言わんばかり、僕のハートが体の真ん中よりも少し左側にある。あとから思えば、この時には僕の腹は決まっていた。

 

 

浜辺はまだ明るい。しかし今日は少し肌寒い。

 

 

いったい誰に頼まれたのか、海辺にそびえた電灯はこんな寒い日でも変わらず道を照らしている。煌々と。暮れゆく太陽にに燃やされて白いワンピースが真っ赤になりながらも自らを主張する。もはやハートも燃やしてしまった僕が立ち尽くす。もう何も聞こえない。君しか見えない。

 

 

沈黙の時間が流れる。君は僕を呼び出しておきながら、何一つ語ろうとしない。背中を向けたままだ。今は引き潮のようだ。

 

 「ごめんなさい」

 

彼女が海に向かって叫ぶ。謝るときは人の目を見て言いなさい。5歳の君が僕によく言ったセリフだ。人は忘れる生き物で。なんだかんだ自分には甘い。

 

 

そして僕は、君に甘い。君を許せないはずがない。僕も人の話を聞かないので、今日のところはおあいこだ。

 

「君が誰かのものではないことはわかってる。けど僕はこう言いたいんだ。僕の波美になってください」

 

水平線へ太陽が沈んでいく。どんだけオレンジやねん、エセ関西弁で思わず突っ込みたくなるほどの夕日が眩しい。風になびく長い髪。病院にいる間にすっかり伸びてしまったようだ。乾くのが速いから、と君はいつもショートカットだった。とても似合っていた。でもロングヘアの君も可愛い。可愛い君以外、見たことないし。可愛くない君を、僕は君として認めない。少し遠くに立っている君のシルエットが美しい。初めて意識した君の曲線美は筆舌に尽くしがたい。どんなデザイナーも芸術家も漫画家も描けないだろうそのカーブに、僕は唾を飲み込んだ。

 

「嫌だ」

「え?」

 

少し間が空いてから僕の鼓膜を揺らしたその三文字に脊髄で応えた。予想だにしなかった。いや、僕が悪い。予想すべきだった。君は波美であり、波だ。寄せては返す。怒涛に迫って来たかと思えば、すっと引き、手の届かないところでニッコリ笑う。今まで僕は君に尽くしてきたつもりだった。僕の想いを小出しにして、君に向けた眼差し、発する言葉、一つ一つの所作に、それはそれは丁寧に想いを包んで、乗せて、運んできた。つもりだった。届いていると思っていた。

 

「あたしは、あなたの波にはならない。なりたくない」

「・・・」

 

君がそこまで悪女だとは思ってもみなかった。予想だにしなかった。もっと優しい人だと思っていた。寄せては返すが、迫る波は心地よく、引くときは誰も傷つけずにすっと引いて、ニッコリ笑う。どうせならその性悪は小出しにしてほしかった。それなら一つずつ小さな波を越えていけていたかもしれない。一気に大きな波が迫ってくると、僕は耐えることができない。

 

「その代わり、お願いがあるの。ねぇ、あたしの波になって。あたし、もう一度、波に乗りたい」

「え?」

 

僕の脊髄が再び答える。いつの間にか辺りは真っ暗になっていた。太陽は今日もここ日本での仕事を終え、また次の国に朝を告げに行った。夕日が沈んだ。遠く離れた灯台と律儀な電灯の微かな明かりの中でも、君がこっちを向いているのが分かった。暗闇になびく風、キラキラした二つの瞳がこちらを見ている。その眼に涙がたまっているように見えた。海だ。君のロングヘアが顔に触れる。くすぐったい。君の瞳が目の前にある。美しい。つま先とつま先がゴッツンコする。うっすら海に映る影が一つになる。僕は言った。

 

「僕が、君の波になる」

 

 

それからしばらくして、君と僕は同じ屋根の下で暮らすようになった。さらにしばらくして、同じ屋根の下での協働生活に一つの小さな命が名乗りをあげて、やがて産声をあげた。

 

 

名乗りをあげたといったが、その名をつけたのは僕ら。親の意向に多くの子どもたちの趣向が左右される。僕らは海で生まれ、出会い、育った。君の名は波美で、僕の名は海実、そして新たな仲間、彼女の名は渚。親の思考の単純さには、本当にもう困ったものだ。

 

                                                                        Fin.